2015年
5月
08日
金
人、人、人
___漢院歴史(二)
人、一番大切な要素です。
誰がやりますか。
誰を対象にしますか。
『漢院の教師』
中国では教師のイメージはあまりにも一歩的なものが多いです。
教師として祭り上げられ、プライドが高く、サービス精神が皆無に近いです。
よって、私は教育はサービス業であるという主張が、多くの反対に会いましたので、新卒を募集して、育成することを決断しました。
私たちは必要としているのが、先生ではなく、勉強を手伝ってくれる友人です。
語学はコミュニケーションの道具であるということで、語学だけにこだわるではなく、幅広い人材を集めることにしました。
私は学歴、専攻、出身を問わず、夢を共有でき、情熱を持っている人に絞りました。
スタッフ募集要項を作成し、上海にいろんな大学の就職説明会に出向き、漢院を説明させていただきました。300人から応募者から、2回面接を通じ、30人に絞込み、1ヶ月の研修を通じ、結果として6人を採用しました。採用者の専攻も中国語、地理、歴史、貿易等多岐にわたっています。
漢院は教師を募集しているではなく、皆様が中国学習を通じ、中国の生活と仕事の質の向上を手伝う人を集めています。
『毎日笑顔で挨拶を』がモットーにして、元気で、明るい学校づくりに徹しました。
当たり前のようですが、意外とみんなが出来ていないです。
『学ぶ人』
中国にて、ビジネスする以上、中国語は絶対必要です。
通訳がいるとか、社内は日本語で通じるとか、言われていますが。やはり、中国語を勉強しましょう。
上達度は人それぞれですが、その姿勢がとても大事です。中国語を勉強しようと言うことは、中国の文化、中国人の生活に近づこうと受け取められ、中国人スタッフはすごく親近感を持ちます。
今までの多くの現地日系企業は上海にあるにもかかわらず、ほとんど日系企業抱けを相手にしています。これからは中国人にも相手にしなければならないです。
上海駐在の日本人管理職との食事会で、よく聞かされることはローカルスタッフへのグチです。特に酒が進むにつれ、批判がエスカレットします。
“あの人の日本語、よく会社に勤まるなぁ”“勉強していない、全然進歩していない”、、、と続き、しかし、発言者は上海赴任して、もう3年にもかかわらず、中国語はゼロに近いですが、、、、スタッフの目にどのように映っているでしょう。
帰任の送別会によく呼ばれますが、一番聞かれる言葉は『中国語をやっておけば、よかったなぁ』です。
特に帰国後、周りから、『○○さんは上海に4年もいったから、中国通。中国語も大丈夫でしょう』と期待されてしまいます。
2015年
5月
08日
金
皋蘭路28号
過去、現在、未来
___漢院歴史(一)
三年前、夢を目指して、漢院を開業しました。理想と現実、経営とに格闘し、数多くのストーリーがありました。
三年目の現在において、過去を振り返り、原点に戻り、夢をもう一度確かめ、形にしたい気持ちが非常に強くなりました。
今、漢院を訪れる方々はまず始めにその建物に感動したといってくださいます。私と親しくなると、建物についての質問がとても多いのです。 建物の歴史、入手方法、金額等、実に皆様は興味深深です。ここで紹介しておきましょう。
この建物との出会いは2004年夏になります。上海ルーワン区政府系大学の付属印刷工場が、政府の政策により閉鎖され、大学の校長先生より、工場の跡地の活用方法に関して相談を受けました。
正直に言って、最初その物件を見たときには、私はあまり乗り気ではありませんでした。
一階、印刷場兼倉庫に入った瞬間、インク油の臭いとカビの匂いが鼻につきます。印刷工場といっても、本当にコレクションにもなるではないかと疑うほどの古さです。何とガリ版の印刷機、おまけに部屋の角にずらり、鉛で出来た漢字の刻印が並べられていました。実に重い、その後の改築工事で判りましたが、床が15センチも沈んでしまっていました。
二階はある職業学校の集団宿舎です。女の子ばかり20人ぐらい生活していました。衛生状況もよいものではなく、古く汚い場所でした。
庭もレンガとコンクリートで囲まれ、プレハブと物置き場になっていました。
現状ではとても使用できません。でも改築すればとてもお金がかかりそうです。
しかし、何となく気になってこの建物の由来を調べて見ると、びっくり。何と元オーナーは国民党時代に中国銀行董事長を務めた宋漢章という方で、彼の住んでいた邸宅でした。彼にまつわる最も有名なエピソードは、1916年、上海の金融危機の際のものです。その年、北京、天津地区は銀行危機に陥り、北京北洋政府は上海の銀行に支払拒否の命令を出しました。しかし上海にいる宋漢章はその命令を拒否し、土日も銀行に営業させ、その結果上海の金融危機は回避されました。共産党政権になってからも、中国銀行の董事に選ばれましたが、後に辞職し、ブラジルに渡り、1968年に香港で亡くなりました。
宋漢章は私と同じく浙江省の出身ということもあって、親近感を感じ、ほっておけない気持ちになりました。
また、その邸宅の周りには、実に多くの著名人がかって住居を構えていたことも分かり、大変驚きました。孫文、周恩来、郭沫若、張学良等々、中国の歴史を作ってきた怱々たる人たちのかっての住居の昔の面影が依然と残っていました。最近、少しづつとは言え、整備されつつありますが、まだまだ十分とは言えないことが残念です。
ですから、よく羨ましがられる話ですが、漢院が使っている老房子は私が見つけたものではなく、頼まれて活用を引き受けただけなのです。これも一つのご縁でしょう。
さて、次はここを使ってなにをするかです。物件は教育局が所有していますので、やはり教育や文化活動に限定されます。
ここで私は、上海に滞在している外国人のビジネスマン、立場が高い人ほど、中国語が話せない人が多いことに気づきました。5年ぐらい上海に駐在しても、『ニハォ、シェシェ』しかできないとよく耳にします。信じられない方も多いとは思いますが、それが現実です。上海だけでの生活なら、あまり不自由を感じずにすんでしまう方もいますが、中国を「世界の工場」から「マーケット開拓」へと業務の移行を行うに当たり、現地の人々との交流を避けて通れない状況がうまれたとたんに困ってしまうのです。
また帰国を目の前に、初めて、中国語を勉強しておけばよかったと後悔する人も多くいらっしゃいます。帰国後も、社内では中国通として期待されているのに、中国語さえろくに話せないのでは苦痛でたまらないものです。
では、そんなな忙しい方にもくつろいでいただきながら勉強できる環境を作りましょう! というのが私の決断でした。
そして、事業計画作り
資金調達
老房子改造
マネージャー探し
人材確保、トレーニング
教材開発
まぁ、たくさんの物語がありました。詳しいことは次回で述べさせていただきます。
最終的に完成したものは:
語学学校にとどまらず、ライフスタイルを提供する施設。
教育はサービス業です。(当たり前だけど、中国では革命的)
語学は道具です。目的はコミュニケーションです。コミュニケーションできない語学は無意味です。
教師の役割は教えることではなく、勉強を手伝うことです。
中国語勉強を諦めている方の夢をもう一度掘り起こしたい、それが私の学校経営の目標なのです。
孫源源プロファイル
1975年3月生まれ
1994年浙江省法律学校卒
1995年日本留学
2001年日本大学商学部卒
2001年日本滋慶学園グループ入社
2001年7月滋慶投資諮詢(上海)有限公司設立
2005年4月 漢院設立
2015年
3月
31日
火
現在の漢院の建物は、当時の強い愛国心をもつバンカー・宋漢章氏の寓居でした。宋氏は1912年2月から当時の中国銀行の頭取を務め、上海金融危機の際には、巧みな手腕でその危機を乗り越えた著名人です。
その後、この建物は上海市盧湾区にある業余大学付属の印刷工場となりましたが、2004年夏、私どもはこの建物に新たな生命を吹き込むため、私どもの夢と現実、また経営における絶え間ない格闘を続け、この老房子のリニューアルを開始いたしました。
上海には数多くの外国のビジネスマンの方々が滞在され、仕事と生活の両面から中国語学習を希望されています。漢院は、このような皆様に、リラックスした学習の場を提供し、アットホームな気持ちで中国語を学習していただけるよう、開校を決意いたしました。
また2006年5月には、浦東に別教室を開設いたしました。陸家嘴の金融センター街のすぐ近くに位置し、教室の雰囲気は浦西校とは全く異なり、ペントハウスから浦東の近代的なビル街とワイタンが一望でき、漢院では、上海での「歴史的な雰囲気」と、「近代的な雰囲気」の両方をお楽しみ頂くことが出来ます。
また漢院では日本、韓国、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアなどの様々な国の方が学ばれています。皆様には新しい言葉をマスターするだけでなく、当校独特の雰囲気や人との温かい交流を通じ、沢山の素晴らしい思い出を作っていただいています。既に帰国された方々も、絶えず連絡をくださり、上海にいらっしゃる際には、必ず当校を尋ねてくださいます。そしてロビーで美味しいコーヒーを飲み、語らいながら、再び当時の漢院の暖かさを感じていただけると思います。
上海が皆様の第二の故郷となりますよう、漢院が皆様の第二の家となりますよう願っております。